Published On: 2024-05-22|Last Updated: 2024-05-22|Categories: Gadget, reblog|

口開けて待って与えられたガジェット買ってるだけだと、いつの間にか地獄になってるかもしれない

https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2207/05/news067_4.html

今更こんな記事を見つけた。Engadget が訳の分からないサイトからよくある情報サイトに変わって消滅して、TechnoEdge は 2022 年頃から見ていたはずだが、このような経緯があったらしい。営利目的の情報サイトは年々劣化が著しく、PR どころか利益供与されていると明確に描くべき提灯記事は当たり前、たまに目に入る Gizmodo の表現は相変わらず吐き気を催す酷さ、とうんざりする状況なのだが、やはりメーカーの言い分垂れ流しではない批判的な記事を求めている読者がある程度いるようだ。

資本とジャーナリズムの癒着は恒常的なものであり、たまに専制主義と実質的に変わらない程度にまで悪化したりと民主的な観念を持つ人間にとっては概ね及第点には達しない。特に資本や権力に近いジャーナリストはジャーナリズムを容易に失いやすい。全国紙・TV の政治部が政権に忖度した報道 (その原資がいったいどこから出たのか自民党の関係者はほぼゲロしているが) を繰り返していることはすぐに理解できるだろう。欧米のメディアもイスラエルに対する忖度を見れば公平性の欠片もない。一方で社会部など市井の生活に近い部分はあの産経新聞ですら権力に批判的な姿勢を持っている。現在の資本主義という名の新自由主義というか要するに言い訳で修飾しまくったただの略奪の究極はカルトである。壺 (でも何でもよい。認知的不協和を発生させるためにも調達費用は低ければ低いほど良い) を売って、ほとんどの財産を寄進 (略奪) させる。とにかく強大であり力強く素晴らしいものだと刷り込み、奪えるだけの資産を奪う。権力者はさらに強大になり、収奪を強化し続ける。弱者は生活に困窮し、あらゆるストレスに晒されて思考力を奪われ、さらに容易に騙される。ジャーナリストは昔からこれに加担してきた。ジャーナリズムという概念はそれに対する反省というか、言い訳である。ジャーナリストが資本・権力と決して癒着しないのであればこうあるべきなどという自己洗脳は不要なのだ。収奪装置の歯車の一部ではないと後ろ指をさされたくないのであれば、それなりの態度で示さなければならない。